ウランバートル2015年秋 6
歴史散策
記念碑・銅像めぐり
記念碑・銅像は歴史を後世に伝えるとともに、各時代の歴史観を反映する。中心部の公園や広場では初めて見る記念碑・銅像が結構あった。見た範囲では、留学していた1980年代からあるのはスフバートル像、ナツァグドルジ像、チョイバルサン像ぐらいだった。
モンゴル人民革命25周年の1946年に建立されたスフバートル像は、今も政庁前の広場の中心に存在する。D・スフバートル(1893~1923)は1921年革命の指導者の一人。だが、広場の名はスフバートル広場からチンギス広場に変わっている。
スフバートル像と向かい合うように、政庁の前に新しくて巨大なチンギス・ハン像が鎮座する。
チンギス・ハン像の前で、フビライ・ハン生誕800周年を祝う民族音楽コンサート「モンゴルの歌声」が9月24日、舞踊も交えて盛大に開催されていた。翌日の新聞報道によると、300人の演奏者を含む総勢500人以上の一流の芸術家が出演したという。
フビライ皇帝に一時仕えたベネチアの商人マルコ・ポーロの像も、チンギス広場の南東に隣接する公園に建立されている。
この公園の東、ウランバートルホテル前にはレーニン像があったはずだが、D・ナツァグドルジ像になっている。モンゴル近代文学の礎を築いた詩人・作家、ナツァグドルジ(1906~1937)の像は市内南部の文化遊園に1966年に建てられたが、2013年にここに移動し、レーニン像に取って代わった。
公園ではモンゴル国歌の碑も発見。説明版によると2008年に建立。国歌は1950年につくられ、歌詞は1961年、1990年、2006年と3回変えられたという。そういえば、モンゴル国歌はどこかで聞いたかもしれないが、聞いた覚えがない。
公園から平和大通りを渡り、国立図書館の前にはB・リンチン像。リンチン(1905~1977)は作家、言語学者、文献学者として、国民の教育・教養の向上に大きな功績を残した人物。彼以上にこの場にふさわしい人物の像はない。だが以前は、1990年2月22日に撤去されるまで、スターリン像が立っていた。
国立図書館の西、国立ドラマ劇場前の広場には、Y・ツェデンバル像が2000年に建立された。ツェデンバル(1916~1991)は1940~1984年にモンゴル人民革命党書記長、1952~1974年に首相を務めるなど、「社会主義」時代、長く権力の中枢にいた人物だ。
その少し北の平和大通りに面した場所には、1990年の民主化運動の指導者の一人、S・ゾリックの像が1999年に建立されている。ゾリック(1962~1998)は民主化後、国会議員や閣僚として活躍したが、1998年10月2日暗殺された。
ほかに詩人B・ヤボーホラン(1929~1982)、法律家・元人民会議議長J・サンボー(1896~1972)、ボグドハーン時代に外相、1924~28年に首相を務めたB・ツェレンドルジ(1869~1928)などの銅像にも出合った。
負の歴史に向き合う
数ある記念碑のなかでも特に注目したいのは、国立博物館前のL・ボルド作「政治粛清犠牲者に向けた記念碑」。説明板によると、1991年に建立が決定され1997年に完成。1990年以降の記念碑建立の先駆的事例になったという。粛清と弾圧の中から光を熱望する人を表現した造形は、横に添えられた「熱い信頼を喪失し強い心を傷つけた暗黒の時代をすべてのモンゴル人は忘れてはならない」というアピールとともに胸に響く。
国立博物館の展示にも、政治粛清の歴史を伝えるコーナーがある。
モンゴルに政治粛清の嵐が吹き荒れたのは主に1930~40年代。人口約70万人の国で20歳以上の男性の5人に1人(4万人)が逮捕され、うち4人に3人(3万人)が銃殺され、残る1万人のほとんどが禁錮10年以上に処されたという。
H・チョイバルサン(1895~1952)がモンゴルで全権を掌握し、スターリンの手足となって、人口の5.4%を逮捕し4%を殺したことは、当時の大虐殺の「世界記録」だとD・ダシダバーが著書『チョイバルサン――スターリン モンゴルにおける大虐殺』(2012年)で指摘している。モンゴルでの粛清逮捕者5.4%は、ソ連の0.15%の36倍にものぼる。
だが、チョイバルサン元帥像は今も変わらずモンゴル国立大学正門前に立っている。生誕地、ドルノド県の中心地の名は今もチョイバルサンだ。チョイバルサンの罪を問わないまま、こんなことが許されるのかとD・ダシダバー氏は批判する。
政治粛清犠牲者記念館
スターリンに従順だったチョイバルサンとは対照的なのがP・ゲンデン元首相(1895~1937)だ。ゲンデンはスターリンが求めるラマ教弾圧や国防費の大幅増額に同意しなかった。1936年、ソ連に連行され、1937年11月、チョイバルサンがでっちあげた「日本のスパイと組んで反革命」の罪でソ連で銃殺刑に処された。1956年に名誉回復される。
日本大使館の近くにある政治粛清犠牲者記念館はゲンデンの娘、ツェレンドラム(1927~2003)が開館した博物館。建物は、実際にゲンデン元首相が1931~1936年に暮らしていた木造家屋を改装したものだという。
政治粛清の全体像、元首相から労働者まで多くの犠牲者の粛清の実態、写真、持ち物などを展示していて、かなり見応えがある。展示によると、粛清犠牲者の名誉回復は1939~47年、1957~68年、1989年以後の3段階で進められてきたという。
国家が犯した罪に対し、国家による謝罪・補償は欠かせない。過ちを繰り返さぬために、記念碑、博物館、教科書などを通じてその歴史的事実を語り継いでいくことも必要だ。モンゴルを含め多くの国では、不十分さを残しながらも、そういうことがなされている。
ところが、日本では政権・与党が侵略の歴史に向き合おうとせず、治安維持法犠牲者の名誉回復・国家賠償もいまだになされていない。
(2016年8月)
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