随想

長谷川四郎の『赤い岩』『ナスンボ』を読んで自由について考える


 長谷川四郎という作家との出会いは高校一年の時だった。現代国語の時間に教材として、『赤い岩』という彼の短編がプリントにされて配布されたのである。その国語の先生は何かの事情でたびたび授業を休まれたが、重厚な人柄が今でも印象深く思い出される。そして思う、なぜ、先生はわざわざプリントにしてまで、私たちに長谷川四郎の作品を読ませたかったのかと。


 長谷川四郎は1909年、函館に生まれ育ち、17歳の時に上京し立教大学予科文科に入る。柳田民俗学に傾倒したり史学を志したりしたが、片山敏彦との出会いを機に文学の道を歩み始め、法政大学文学部ドイツ文科に入学し、同人誌活動に打ち込んだ。1936年の卒業後、満鉄に入社し、北京や大連で働き、42年に満鉄を辞め満州協和会本部調査部に入り、満州のモンゴル人の土地調査に携わり43年、札蘭屯(ジャラントン)の協和会布特哈(プトハ)旗本部事務長になる。44年に軍隊にとられ、45年の敗戦後から50年2月に復員するまでの4年半、ソ連の捕虜として、炭坑、煉瓦工場、コルホーズで働き、掃除夫、線路工夫などもしてシベリアで収容所生活を送る。

 シベリアからの帰国後、1952年、43歳にして、処女作『シベリヤ物語』が筑摩書房から出版された。

 波乱万丈の体験を積み、しかも7年間も文学から離れて生活してきた後に、作家として出発するとき、彼の意識の底には何があっただろうか。

 「五木寛之氏は、『シベリヤ物語』はのんきな本で捕虜生活の苦しみが出てないですねと言った。もしそうだとすれば、それは罪ある者として私がよろこんでシベリヤに服役したためかもしれないと考える」と長谷川氏自身言っている。彼にとって書くということの原点は、戦争であり戦犯意識である。

 だが、捕虜生活の体験をもとにして書かれた『シベリヤ物語』には、ロシア人を始め日本人、モンゴル人等のさまざまな人間模様がいきいきと描かれていて、ソ連の当時の社会主義建設の非常な困難さや、その厳しい状況のなかで生き抜いていこうとする人々の明るさ、人間臭さといったものも伝わってくる。一言で「戦争文学」と片づけてしまうにはあまりにも多くの要素が含まれているのではないだろうか。

 どの作品もあくまでも静かな調子で語られているが、著者のものごとをみつめる視点は鋭く、歴史的社会的に重要な問題を提起している。

 たとえば『赤い岩』と『ナスンボ』の二つの短編を読むと、自由と民族の問題について考えさせられるものがある。


 冒頭に述べた『赤い岩』(1954年発表)では、1945年8月8日に開始されたソビエト軍の満州進攻が始まる数日前という時に、内モンゴルの日本軍の捕虜収容所から脱走したアメリカ兵を村長が殺すという事件が扱われている。この事件について、年齢も国籍も境遇も全く異なる二人の人物がそれぞれの立場から語っている。

 同じ時代、同じ場所のこととは思えないほど相違する二人の語りを並べるという手法は、戦争というものを一層あざやかにえぐり出すのにすぐれた効果を発揮している。

 まず、赤い岩のふもとの村で羊番をしている孤児のニウガルが、脱走兵と出会ったいきさつを、村の自然や村人たちの生活ぶりについて何気なく触れながら、子どもらしく率直に語る。

 ニウガル少年の語る牧歌的な世界は、現地除隊されてハム工場で働く日本人が語るとなると、一転して、戦時中の厳しい現実の世界へと急変する。

 日本軍のロボットのように動く村長が、自由を求めて脱走した米兵ジョン・トカチウクを殺害するという事件に示されているように、この小さな村にも日本軍国主義の暗い影が落ちていた。「ぼく」は「自由を欲する人間がなぜ殺されなくてはならないのです?」と怒りの声をあげ、朱老人はそれに対して沈黙する。

 冷静沈着な彼は明日を信じて怒りを抑える。大人である彼らも、人間に対する愛の深さにおいてはニウガル少年と同様である。

 長谷川氏はこの作品で、戦争というものがいかに人間を抑圧し、自由を奪い去るものであるかを告発している。「いま東京の町でGIをみると、ぼくはときどき、ジョン・トカチウクのことを思い出すのです」と結ぶ。人権抑圧、自由剥奪は戦後に至っても続いている。

 自由を求めて脱走した人物は『ナスンボ』(1953年発表)にも登場する。

 ノモンハン事件――モンゴルではハルハ河戦争と呼ぶ――の直後という時に、ナスンボは家畜の馬を追いかけている内に国境を越えてしまい、ソ連軍に捕らえられ、日本人捕虜収容所に入れられる。

 大勢の日本人のなかで孤独な彼は「日本人に対し、一種素朴な対抗意識をもっていた」。日本人といっしょに作業をしている時などにたびたび「シック、シック、俺はよい人間だ」という言葉がナスンボの口から出てくる。

 「シック、シック」とは、モンゴル語で"Яршиг яршиг"といい、「いやだ、いやだ」といったような意味を持ち、いわば罵言である。

 ハルハ河戦争の直後ということで、モンゴル人は日本人に対し民族的対抗意識をもっていたと予測できるが、ナスンボの「一種素朴な対抗意識」が果たしてそうした性格のものであるかは若干疑問である。直接には日本人に向けられた「シック、シック」という罵言には、国境を越えたというだけで捕え拘束した――モンゴル人であるということで特別に待遇したとはいえ――ソ連当局の官僚主義的なやり方に対する不満や抗議も含まれてはいないだろうか。

 ナスンボはついに、出張でアガ・ブリヤートモンゴル民族管区を通過中に、同じ民族のところに駆け出して行く。

 「自由を求める」とはどういうことなのだろうか。自由は天空のかなたにあるものなのだろうか。ジョン・トカチウクやナスンボが身の危険を冒してまで求めた自由は、実に具体的なものではなかっただろうか。

 ナスンボにとっての自由とは、ひろびろとした平原の上での労働や生活のなかに見出されるべきものであり、貯蔵庫の番人などをして過ごす生活は「牢獄に入れられていない囚人の生活」と何ら変わるものではなかった。

 「シック、シック、俺はよい人間だ」とは、自由を奪ったことへの抗議の言葉だ。そこには、モンゴル人としてのアイデンティティの主張があり、働く者の大いなる誇りがある。

 脱走は失敗に終わったが、まもなく解放される運びとなった。

「彼はその平原に復帰した。おそらくは人民共和国の一牧民として元気に働いていることであろう。シック、シック、ナスンボ、彼はよい人間だった」

 宙ぶらりんの自由からは何も生まれない。否、一体そんなものがあるのだろうか。ナスンボのように大地をしっかりと踏みしめて生きる人々が、労働や生活の中で獲得してきた自由を奪われたときに初めて、抑圧への抵抗としてアイデンティティ――民族独立――を主張し、抑圧者から自由を取り返す力としての民族解放の思想を育てていくのではないだろうか。


<モンゴル研究会『モンゴル研究』№6(1983)掲載>